「興味深かったです。それは本当です」
頭で考えるより先に、口が開いていた。
「はい」
次の言葉を促すように、北浦は深くうなずいた。
「でも、私の場合、仕事で命じられてここに来ました。好き嫌いにかかわらず、北前船のことは勉強しなくてはいけない状況でした」
「はい、それはわかっています」
調子を変えずに北浦は答えた。
「自分で、自発的に興味を抱いて来たわけじゃありません。でも、北前船についてお伺いしてみると、事前に想像していたよりは、ずいぶん興味深い話だった……そんなところです。それが、いちばん正直な気持ちかと想います」
そう言った後、澪はひどい自己嫌悪に襲われた。
やってしまった……そう思った。
いくら正直に話そうと思った、とはいっても、初対面の相手に失礼だ。大人同士の対応としては明らかに間違ってしまった。
──自分はやっぱりコミュニケーション能力に欠けているんだ。
「……すいませんでした」
北浦が深く頭を下げた。
「答えにくいことを尋ねて、こちらこそ失礼しました。別に風見さんのことを試そうとか、困らせようとか、そういうことではなかったんです」
「……はい」
「風見さんが北前船のことに……興味を持ってくれたことも、それはよくわかりました。仕事だからと仰るでしょうが、それでも嬉しかったです。残念ながら、北前船のことは、地元の人でも、なかなか興味を持ってもらえないのが現実だから……」
「あ、はい……」
澪は胸を抉られた思いだった。
「あの、北前船に興味ない地元の人間て……それ、私がその代表だったと思います。昔のことだし、酒田がそれで栄えていたとはいっても、今のことには直接は関係ないし……ごめんなさい」
「いや、謝らないでください。それでも私の話をちゃんと聞いてくれた。それだけで十分です。……私、ガイド、としてはあまり人気がない方で」
北浦は苦笑いした。
「え?」
「自分はボランティアのガイドさんのように、面白おかしくお話しすることが苦手で。でも、そうしないと、だいたいのお客さんは途中で飽きてしまいます」
「あっ……そうかもしれませんね。大変ですよね……」
「でも、北前船のこと、もっとたくさんの人に知って欲しいとは思ってるんです。日本遺産に選ばれたことも、本当に嬉しかったんですよ。これをきっかけに、北前船に興味を持ってくれる人が、ひとりでも増えたらいいなって」
「……はい」
「ところで風見さんは酒田のご出身なんですよね? 今のお話からすると」
「はい、酒田で生まれて酒田で育ちました。大学の時だけ、東京に出ていましたけど」
「そうですか。だったら、特に覚えておいて欲しいことがあります。今日、お話ししようかどうしようか、迷ってやめていたことなんですが……。でも、風見さんが北前船のことを知るうえで、いちばん重要なことかもしれません。北前船の終わりのことです」
「北前船の……終わり?」
「はい。北前船は明治中盤に姿を消します。鉄道等の陸路輸送、水運でも郵船会社などの大規模輸送に負けて、その使命を終えたからです。けれど、その直前の明治前半でも北前船の商売は栄えていたんです。その財を蓄えた者たちが、それぞれに銀行や会社を興します。日本海側の各都市の発展は、元を辿れば北前船の船乗りたちが勇気をもって海に乗り出していったからです。……今の時代を生きている人たちにも、それを覚えていて欲しいんです」
「は、はい……」
──どうしてだろう?
北浦の言葉は静かだったが、なんともいえない切実な響きがあった。
「今の私たちの生活にも、深く繋がっている、ってことですよね?」
「そうです。それが人の歴史なんです」
「わかりました」
自分に言い聞かせるように、澪は深くうなずいた。
「北浦さん、改めてお願いします。私に北前船のことを教えてください。私の仕事は北前船のことをたくさんの人たちに伝えることになりそうなんです。そのためにも、私は北前船のことをもっと知っておきたいんです」
「はい、こちらこそお世話になります」
北浦は優しく微笑んだ。
「私の力が及ぶ限り、北前船のことを風見さんにお話しします。ただ……、
……間違えましたら、よろしく」
北浦に別れを告げて、澪は資料館を出た。
足を止め、暗い玄関ロビーを振り返って、澪は考えた。
──間違えましたら、よろしく。
その場で確かめることはしなかったが、北浦のあの言葉、どういう意味なのだろう。奇妙な言い回しが、どうしても頭に残っていた。
「──お嬢さん」
背中から声をかけられ、澪は慌てて振り向いた。
そこにいたのは痩せた小柄な老人だった。白髪の頭にハンチングキャップを乗せ、グレーのツイードのジャケットを着ていた。すでに現役を退き、悠々自適の生活をしていそうな雰囲気だった。
澪と目が合うと、老人はにっこり微笑んだ。そして……。
「北の海のことを知ろうとするなら覚悟が必要ですよ」
「はい?」
澪がきょとんとしていると、老人は彼女に背を向け、軽やかな足どりで資料館の中へ入っていった。
翌日の午後、澪は約束通り、酒田市役所の玄関ロビーで北浦と落ち合った。
ふたりが向かったのは、市役所のすぐ目の前、同じ本町通りに面している「旧鐙屋」だった。
旧鐙屋
「市役所勤務の方に、改めてここを紹介するのも奇妙な感じがするのですが……」
と、前置きをして、北浦は説明を始めた。
「この旧鐙屋は国指定史跡にもなっていますが、北前船の、日本海の海運で財を成した廻船問屋『鐙屋』の屋敷跡です……風見さん、ひょっとしてここには……」
踏み入れようとした足を止めて、北浦は澪の顔を見た。
「すいません……それこそ、この屋敷の前は数えきれないくらい通ってますけど、中には入ったことありません……ごめんなさい」
「大丈夫ですよ、これから勉強すればいいんですから。じゃあ入りましょうか」
ふたりは小さな門をくぐり、中に入った。鐙屋はかつて庄内地方で一般的だった「石置杉皮葺屋根」の町屋造りの屋敷だった。
入ってすぐ右は上がりに畳が敷かれた帳場になっていた。何体かの和服の人形が置かれ、往時の様子が再現されている。
「ここがいわゆる、店、の部分ですね」
北浦の説明に澪はうなずいた。時代劇等でよく見る、商家の造りそのものだった。
「それじゃあ中を見てみましょう」
顔馴染みなのだろう、北浦は受付の女性に「こちら市役所の方」とだけ言うと、そのまま澪を奥へと案内した。
屋敷を貫く通り庭(土間)の左手に座敷、右手が広い庭になっていたが、あまり光は入らず、薄暗い。だが、穏やかな感じがして、それがむしろ心地よかった。
土間から上がり、奥へ進むと、どこまでも座敷が続いている。
「さすがに広いですね……」
澪が溜息をついていると、北浦は首を横に振った。
「今の感覚でいえば、これでも十分にお屋敷ですが、元々の鐙屋の広さはこんなものじゃありませんよ。今、残されているのは、あくまでも本町通りの居宅だけで、元は旧町名でいう、大工町あたりまでを占める、それは大きなものだったんです。ちなみにこの建物は、江戸末期の弘化二年の大火の直後に再建されたものです」
「その頃にも酒田で大火事があったんですね……」
「ええ、港町と火事はどうしても切り離せません──台所の方に行ってみましょう」
屋敷のいちばん奥にある台所も広く、そこにも調理をする女中の人形たちが置かれていた。澪が気になったのは、その台所の手前に掲げられた一枚の絵だった。台所で忙しく働く女中たちの姿が活写されている。
「井原西鶴の『日本永大蔵』の挿絵です」
北浦がそう教えてくれた。
「西鶴の『日本永代蔵』、その巻の二『舟人馬かた鐙屋の庭』にこの鐙屋のことが書かれているんです」
よく見れば、絵の掲示の横に『日本永代蔵』についての説明が記されている。
──爰に坂田の町に、鐙屋といへる大問屋住みけるが、昔はわずかなる人宿せしに、其身才覚にて近年次第に家栄え、諸国の客を引請け、北の国一番の米の買入れ、惣左衛門といふ名を知らざるはなし。/表口三十間裏行六十五間を家蔵に立て続け、台所の有様目を覚ましける。
「『日本永代蔵』は西鶴の筆による浮世草子で、当時の町人文化について書かれたものです。そこに取り上げられるほど、鐙屋は繁栄していたというわけです」
澪たちが旧鐙屋に続いて足を運んだのは、「本間家旧本邸」だった。
本間家旧本邸
通りに面した門をくぐると、待っていたのは玄関脇の立派な松だった。手を広げたように左右に大きな枝が伸びて、左の枝は母屋にもたれかかるような形になっていた。
「あれは赤松、『伏龍の松』と呼ばれています。樹齢四百年。『門かぶりの松』とも呼ばれているそうです」
澪が見とれていると、北浦がすかさず説明をしてくれた。
「『本間家旧本邸』という呼び名からもわかるように、ここはかつての本間家の屋敷なんですが、その成立は少々複雑です。そもそも、ここは本間家のために建てられたものではなかったんです」
「本間家が建てたのに? それじゃあ……誰かに貸すために、とか?」
自信なげに答えた澪だったが、北浦は笑って、
「惜しいですね。貸すためではなく、献上するための建物だったんです。十八世紀、本間家を隆盛させた三代目の本間光丘、彼が幕府巡見使の本陣として建てて、庄内藩主酒井家に献上して、巡見使の宿としての務めを終えると、その後、藩から拝領したものなんです」
「自分で建てたものを藩にあげて……それをまたもらった?」
「そうです。今と違って、昔はいろいろややこしいんです。ちなみに本間家は藩の財政面の相談役を務めたり、蓄えた財を酒田の町の整備のために使ったり、一商人の枠を超えて、酒田の発展に尽くしたんですね」
「はい、本間家と酒田の関係については学校で教わりました」
「本間家は第二次世界大戦が終わるまで、日本でもいちばんの地主で、その繁栄ぶりは凄まじいものだったんですよ。
──『本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に』
そんなふうに歌われるほど……。まぁ、とりあえず中に入ってみましょう」
ここでも北浦は顔馴染みだったのか、挨拶だけで中に入ることができた。
屋敷の中は鐙屋と同じように、通り庭があり、庭と座敷の間を仕切っていた。
「この本間家の建物はかなり珍しい構造で、武家屋敷と商家造りが一体になっているんです。それで家人は普段、武家屋敷部分に立ち入ることさえできなかったんですよ」
「うわっ、凄いですね、昔って。自分たちの家なのに入れないところがあるなんて」
澪たちは屋敷の中を巡り、実際に武家屋敷部分と商家部分の違いを見学した。
「鐙屋も凄かったですけど、ここも……んー、なんて言ったらいいんでしょう。迫力がありますね。特に武家屋敷の方は……こういう言い方が正しいかどうかはわからないですけど、見ているこちらに迫ってくるような、そんな威圧感みたいなものも……」
「そうかもしれませんね。長い歴史の積み重ねが、目に見えない力を貯め込んでいるのかもしれません」
澪の子供じみた感想を、北浦は否定することもなく、そのまま受け止めてくれた。
ふたりは本間家旧本邸の見学を終えて、本町通りに出た。
「どうですか、風見さん。鐙屋と本間家を見学してみて」
北浦に尋ねられて、澪は「うーん」と考え込んで、
「そうですね。どちらも外から見るより、中はずっと広くて驚きました。私、古い建物の価値とかわからないんで……あの素朴な感想で恥ずかしいんですけど、北浦さんに教えてもらったように、北前船の商売って本当に儲かってたんだなぁって……まずはそれですね」
「そうですね、ふたつの屋敷がある本町通り、ここはかつての酒田の中心で、北前船の時代には廻船商人の屋敷がたくさん並んでたんです。それから、鐙屋にしても本間家にしても財を成したのは、北前船の船主というより……今の言葉でいえば、貸倉庫業ですかね、それで栄えたんです」
「貸倉庫? どういうことです?」
「酒田は米の集積地だったという話はしましたよね。それの一時預かりや、北前船の荷物を預かったりで儲けていたわけです。庄内米を送り出す港、つまり西廻り航路の起点であると同時に、北前航路においては、ひとつの寄港地だったわけですから。鐙屋も本間家も今にも残るように栄えたのは、むしろ北前船の商売だけに頼らなかったからでしょう。本間家は特に地主として栄えていたわけですから」
「北前船の商売、それだけ不安定だった……ということですか?」
「そうですね。リスク……それも多いですし、商売に成功すると幕府に目をつけられたり……その末路は悲しい場合が多かったり……するんですよ」
そう言った北浦の顔は、まるで自分のことを語るように寂しげだった。
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